本HPではオペラ・バレエ等のあらすじを、立体的に理解できるようA4サイズにまとめ、PDFでダウンロードできるようにしています。

古代イスラエルの歴史

オペラ化された人達

古代イスラエルの歴史に登場する人物を使って、多くのオペラが作曲されています。

①エジプトを出国する時に引率する預言者モーゼ

・ロッシーニは1827年、オペラ「モーゼとファラオ」を作曲した。

・シェーンベルグは1945年、オペラ「モーゼとアロン」を作曲した。

②海の民の一部でガザに居住していたペリシテ人の女性

・ヘンデルは1741年、オラトリオ「サムソン」を作曲した。

・サンサーンスは1877年、オペラ「サムソンとダリラ」を作曲した。

③滅亡したユダ王国の人々をバビロンに捕囚したナブコドノゾル2世

・ヴェルディは、オペラ「ナブッコ」を作曲した。

④ユダ王国ハスモン朝の建国に挑んだユダ・マカバイ

・ヘンデルは、オラトリア「ユダ・マカベウス」を作曲した。

⑤ユダ王国ヘロデ朝の時代の人物

・R・シュトラウスは、楽劇「サロメ」を作曲した。

・モーツァルトは、オペラ「皇帝ティチュスの慈悲」を作曲した。

 

用語の説明

①イスラエル人=預言者アブラハムの孫でイサクの子ヤコブが、「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」を複合した意味の名を、与えられた。

②ユダヤ人=ユダヤ教を信ずる人々、といわれるが、離散する前の紀元前の歴史の説明なので、ここでは宗教とは無関係に、ユダ族の人々のこと、としています。

㋐預言者アブラハムが、BC2000頃の75歳で、神から啓示を受け、約束の地カナンへ到着したが、貧しい土地だった。

㋑モーゼが、BC1280頃にシナイ山で、「十戒」を授かり、ヨシュアがカナンの地を征服し、ヤコブの12人の男子に約束の土地を与えたが、そのうちの一人「ユダ」に与えたエルサレム等の土地を、ユダ族達が、「ユダ王国」に発展させている。

㋒ユダ王国は、約450年続いたが、BC586に新バビロニア王国に征服され、当時の強制移住の習慣に従い、「バビロンに捕囚」された。

㋓ユダヤ教とは、バビロン捕囚中のイスラエル人が、「十戒」を中心に神の教えを体系化したもの。名称は、ユダ王国から捕囚されたユダ人が多かったので「ユダヤ教」と名付けた。

③パレスチナ人=BC1250頃から、海の民の一部を構成する「ペリシテ人が住み始めた土地」という言葉が、由来と言われる。

④ヘブライ人=セム語を話すイスラエル民族と同義だが、カナンの地には、他に海上交易のフェニキア人、陸上交易アラム人も居た。

⑤五大預言者=イスラム教によれば、ノア、アブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマドといわれる。参考に、「ムスリム」とは、イスラム教を信じる人のこと、といわれる。

⑥カナンの地=カナン(預言者ノアの孫)の名を取った民カナン人は、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名で、カナン人はフェニキア人に近く、商人として評判とのこと。BC3000頃から使われているが、現在のイスラエルに相当する地域である。

⑦ヤハベ=神、エホバともいうが、旧約聖書や新約聖書等における唯一の神で「万物の創造者」のことである。

 

旧約聖書の流れ

①ヤハベは、BC4000頃に、天地を創造して地上の管理を人間に任せようとしたが、アダムとイブが堕落したり、バベルの塔を建てようとしたり、神への裏切りが続き、ノアを除いて抹消した。

②ノア(アダムの十世代後の世代)は、ユーフラテス川上流のウルから方舟に乗って、アルメニアから見えるアララト山に逃れて、ヤハベが起こした洪水から免れた。ヤハベは、邪悪さがなく無垢なノアとの間で、安全・安心な契約を結び、BC3000頃に預言者とした。

③ アブラハム(ノアの末裔テラの息子)も、南イラクのウルで遊牧生活を送っていたが、BC2000頃の75歳の時に、移動途中のハランで父テラの死後、神から啓示を受け、それに従って、妻サライとともに約束の地カナンへ旅立った。しかし、カナンの地では飢饉に見舞われ、ヤハベ信仰を共有する部族をまとめて、エジプトに移住した。現地では、エジプト国王のお世話になったが美人の妻のことで誤解が生じて、財産を築いたあと、再度カナンの地に戻った。

④アブラハムは、76歳の時に初めて、妻サライの薦めに従い奴隷ハガルと交わらせて、息子イシュマエルをもうけた。しかし、妻サライは、イサクを出産した後に、増長したハガルとイシュマエルに嫉妬し追い出した。なお、ユダヤ人とイスラムの伝統の間では、アブラハムの息子のイシュマエルを、全てのアラブ人の先祖とみなしている。

⑤アブラハムが100歳、サライが90歳の時に、イサクを授かった。サライが127歳で死んだ後、アブラハムは再婚して6人の子を授かったが、175歳で死んで、ヘブロンに埋葬されている。

⑥イサクは、アブラハムの後を継ぎ族長となり、ゲラルの町で富豪になり、60歳の時にエサウとヤコブの双子の兄弟を授かり、180歳にエルサレムの南西100㎞のヘブロンで死んだ。

⑦ヤコブ(アブラハムの孫でイサクの子)は、兄弟喧嘩をした兄エサウとの和解を志して会いに行く途中で、ヤボク川の渡しで格闘し勝利したことから、「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」を複合した「イスラエル」の名を与えられた。ヤコブは4人の妻と12人の息子をもうけたが、ラケルと交わり生まれた息子ヨセフを寵愛した。ヤコブは、ヨセフに呼ばれエジプトで生涯を終え、遺言に従い故郷カナンに葬られた。

⑧ヤコブは、4人の妻を持ち、12人の息子と1人の娘をもち、それぞれ支族を持ったが、後のユダ王国は、ユダ族とベニヤミン族から構成され、それ以外が北イスラエル王国を構成した。

㋐ラバンの娘レアの子=ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、一人娘のディナ 

㋑ラケルの下女ビルハの子=ダン、ナフタリ

㋒レアの下女ジルパの子=ガド、アシェル

㋓レアの妹ラケルの子=ヨセフ、ベニヤミン

⑨ユダ(ヤコブの子)とは、「ヤハベに感謝する」という意味。ユダを祖とするユダ族は、旧約聖書の時代にはユダ、新約聖書の時代にはユダヤとよばれ、ここからユダヤ人、ユダヤ教という名称が派生した。

⑩ヨセフ(ヤコブの子)は、兄弟達の嫉妬により行方不明だったが、エジプトで副王となり出生していたことが分かった。ヨセフは、イスラエル人一族をエジプトに招いてBC1680頃に移住させた。ヨセフは、110歳で死んだ。ヘブライ人は、BC1500頃にカナンの地で活動し始めたセム語系民族で、イスラエル人が自身のことを外国人に話すときに使われるようだ。

⑪モーゼ(レビ族のアムラムとヨケベドの子、雄弁な兄アロンと姉ミリアムがいる。)は、エジプトに移住したイスラエル人達が過酷な労働に駆り出され苦労しており、エジプト第19王朝セティ1世の頃に迫害されていたので、BC1280頃に彼らを率いてエジプトを出国することにした。シナイ半島のシナイ山では、ヤハベと契約(十戒)を結ぶ。そして、シナイ半島を経由して40年間民族対立を避けながら荒野を放浪したため、過労でネポ山で120歳で死んだ。

⑫ヨシュア(エフライム部族のヌンの子)は、モーゼの後を継いでカナン全土を制圧し、BC1240頃にヤコブの十二部族に、くじ引きで土地を分配して、ようやくヤハベの約束が成就したが、110歳で死んだ。ユダとベニヤミンに与えられたエルサレムを中心とした土地が、「ユダヤ」と呼ばれるようになった。

⑬12支族のカナン入植後、イスラエル王国が建国されるまでの間、各支族を率いるリーダーを「士師」といった。

 

カナン入植後からイスラエル王国分裂まで

BC1457=カデシュの王が率いるカナン・ミタンニ連合軍が、メギド(ナザレ南西20㎞)で、エジプト王朝トトメス3世に敗れ支配されるが、イスラエル人はエジプトに移住していて、この地域には居なかった。

BC1250=地中海東部地域に来襲した「海の民」の一部であるペリシテ人は、エーゲ海域とギリシャのミケーネ文明を担った人々に起源を持つと考えられている。パレスチナ人は「ペリシテ人の土地」に住む人々という意味。

BC1200=カナン人が表音文字を作り、フェニキア人に伝わり、交易でアルファベットが使われた。

BC1021=初代国王サウル(~BC1000)は、有力な士師サムエルの推薦によりイスラエルのベニヤミン支族出身ながら就任した。海の民ペリシテ人に対抗するために選ばれたが、サムエルとの意見の相違が多く、自害した。

BC1000=第2代国王ダビデ(BC1000~BC962)は、ベツレヘム出身でサムエルが推薦した。首都をヘブロンからエルサレムに移した。ペリシテ人、エドム人等を征服し、中央集権的君主制を樹立、傭兵を組織し、税金の徴収の厳格化を図り、神のためというよりも、自分のための王国をつくっていった。

ダビデの後継者は、ダビデの子供達同士で姦淫と謀殺をおこなったため、なかなか決まらなかったが、ヒッタイト人の家臣ウリヤの妻であるバド・シェバが、水浴びしている美しい姿を見て、不倫して生まれた二人目のソロモンで決まった。ウリヤは、ダビデに戦場に送られて、戦死したとのことである。後継者は、それ以降、士師の推薦でなく、指名により就任していくことになった。ダビデは、領土を拡大させたので、偉大な王であった、と言われている。

☞ペリシテ人最強で身長約3mの巨人戦士ゴリアテは、戦いにより、イスラエル王国のダビデに首を取られた。

☞ペリシテ人のダリラは、ずるい裏切り者で、士師サムソンの弱点を聞き出して、ペリシテ人に殺害させた。

BC0962=第3代国王ソロモン(BC1011~BC931)が就任した。外国貿易のための隊商路を整備し外国交易を広げた。また、官僚制度を確立して国内制度の整備を行い、大規模な土木工事もより国内各地の都市も強化している。ソロモンが神からもらった知恵は周辺諸国にも知られ、親交を求めてくる王や使者が絶えなかったという。「ソロモンの栄華」といわれた。ソロモンの長い統治は経済的繁栄と国際的名声をもたらしたが、重税と賦役を民衆に課し、出身部族であるユダ族を優遇したことが、君主政治支持者と部族分離主義者との対立を拡大させた。さらにユダヤ教以外の信仰を黙認したことは、ユダヤ教徒と他の宗教信者との宗教的対立を誘発した。なお、政略結婚により後妻としてエジプト王朝シェションク1世の娘を迎えたとされるが、子供もおらず、ソロモンの栄華と結びつかないので、疑問視されている。

BC0945=ソロモンは、エルサレム第一大神殿を、シオンの丘に7年で建築した。

BC0942=ソロモンは、会いに来たアクスム王国の「シバの女王」と結ばれて、帰国後メネリク1世が生まれ初代エチオピア国王になった、と言われている。しかし、アラビア交易へのユダヤ人の参入の正当化を主張するためのBC7世紀頃の物語である、とも説明されている。

BC0931=4代目レハブアムが父の後を継いで即位した。しかしソロモンの政策を引き継いで大事業を繰り返しため、重税と賦役を民衆に課し,改善しないので、人々は不満を持った。

BC0925=レハブアムの時代、エジプト王朝シェションク1世の侵攻により、ソロモンの神殿と王宮は蹂躙され、契約の箱を除く財宝の殆どが略奪され破壊されたため属国となった。

 

北イスラエル王国の建国から滅亡まで

BC0922=エジプトから呼び出されたヤロブアム1世率いる北イスラエル王国が離反して、レハブアムは、ユダ王国の初代の王として、残されたユダ族、ベニヤミン族を統治することとなった。10部族が北部に北イスラエル王国(サマリヤが首都)を建国し、2部族が南部の死海に面してユダ王国(首都:エルサレム)を建国し分裂した。

BC0865=10代目イエフが即位する。旧約聖書では、イエフを除くと、暴君か暗君しかいない、とされる

BC0722=北イスラエル王国の滅亡。10部族のまとまりが悪く、アッシリアのシャルマネセル5世に滅ぼされるが、自滅に近い。強制移住のルールに従い、10部族の指導者層はニネベに捕囚された。

 

ユダ王国の建国から滅亡まで

BC0922=2部族が南部の死海に面してユダ王国を建国し、首都をエルサレムとし、北イスラエル王国ほど喧嘩が多くなかったため、長く続いた。

BC0849=第5代ヨラム(BC881-BC842=39)が即位したが、以降、BC783の第9代アマツヤまで、5代にわたり国王が連続で、99年間、宗教的・政治的理由等により、暗殺されている。

BC0735=第12代アハズ(BC755-BC715=40)が即位した。アッシリアの神々の崇拝をユダに導入して、偶像崇拝を容認した悪い王とされ、アッシリア王ティグラト・ピレセル3世がシリア方面に進軍したために、アッシリアに臣従の姿勢を取り、貢納を収めた。

BC0640=第16代ヨシア(BC660-BC609=51)が即位すると、規範的ヤハウェ信仰以外の宗教の信者を弾圧し、その神々の像を偶像と侮蔑して破壊するなど、宗教改革を行い、旧約聖書の中では優れた王として描かれる。

BC0612=新バビロニア王国とメディア王国連合軍により、新アッシリア帝国が陥落した。その結果、アッシリアの支援を失ったユダ王国は、メギドの戦いでエジプトに敗北し、ネコ2世のエジプトの従属国となった。

BC0609=復権を試みたが、駄目で新アッシリア帝国が滅亡し、先々のペルシャであるメディア王国が台頭した。

BC0605=ユダ王国は、エジプト王朝の従属国だが、新バビロニア王国の従属国に変わった。理由は、カルケミシュの戦い(トルコ・シリア国境)で、エジプト王朝が新バビロニア王国に敗北したからである。

BC0597=ユダ王国を攻め、ヨアキン王他1万人のユダヤ人をバビロンに捕囚した。(第1回)

BC0586=エジプトと組んで新バビロニアに対抗しようとするユダ王国の思惑がはずれ、裏切られたと悟ったナブコドノゾル二世により、ソロモン神殿が破壊され、ユダ王国が滅亡させられる。約500年の歴史が閉じて、第二回のバビロンへ捕囚された。

 

ユダ王国滅亡後の外国人支配の時代

BC587~BC539(048)

=新バビロニア王国が支配したが、アケメネス朝ペルシャのキュロス二世が滅ぼして、捕囚されたユダヤ人達をバビロンから解放した。

BC539~BC332(207)

=アケメネス朝ペルシャが支配したまま、BC515に、ユダヤ人指導者ゼルバベルの管理の下、エルサレム第二神殿を建設。

BC332~BC305(027)

=プトレマイオス朝エジプトが支配した。アケメネス朝のダレイオス三世が、イッソスの戦いでアレキサンダー大王に敗れ、支配者がセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝に代わる。

BC305~BC166(139)

=セレウコス朝シリアが支配した。

BC166~BC063(103)

=旧ユダ王国ハスモン家のユダ・マカベの指導により独立戦争が始まる。セレウコス朝シリアから、エルサレム神殿で異教の神への捧げ物と祭儀を行い冒涜されたので、マカベア戦争を起こしたものである。後を継いだ弟のシモンが勝利し、独立国家となった。その後、内紛が続き、ポンペイウスにより、ハスモン家の支配者の王位は剥奪され大祭司を名乗ることだけが許されて事実上滅亡し、ローマから派遣されるシリア総督の支配を受けることとなった。

BC063~BC037(026)

=ハスモン朝の人間同士では、まとまりをつけられないの、やむを得ず、共和制ローマが支配した

BC037~AD100(137)

=ヘロデ朝の成立。ハスモン朝の反乱が続き、ローマ元老院は、エドム人ヘロデをユダヤ人の王として認め、ローマの力を背景に全イスラエルの支配を目指した。BC40には、アントニウス率いるローマ軍と共にパルティア軍を追い払い、ヘロデ朝が成立。なお、聖書では、「ユダヤの王が生まれた」と言う話を恐れたヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺で産まれた2歳以下の男の子を、一人残さず殺した。イエスの父ヨセフは夢に天使が現れ「エジプトに逃れなさい」と告げたので、幼子イエスとその母マリアを伴ってエジプトに逃れていたので難を逃れた。ヘロデが死んだ後(BC4)にイスラエルの地に戻ったヨセフは、やはり天使の声に導かれてナザレの町に住み、イエスを育てたという。

☞BC000=大天使ガブリエルよりマリアに「受胎告知」を告げられた。ヘブライ人は、神の掟を忠実に実行し人々を導く救世主を求めた。

☞AD066=ユダヤ地方はローマの直轄地であるが、エルサレムで過激派の暴動があり、派遣されたティチュスにより収拾されたが、これをユダヤ戦争という。

☞AD071=ヘロデ大王の娘のヘロディアの前夫との娘サロメが、57歳で死去した。

☞AD079=アグリッパ1世の娘のベレニスは、ローマ市民の反対で皇帝ティテュスと結ばれず。

☞AD100=ヘロデ朝アグリッパ2世の死去に伴い、イスラエルの地が、ローマ直轄領になった。

AD0100~AD0395(295)=ローマ帝国

☞AD132=バル・コクバの乱が起こってユダヤ人による自治は完全に廃止され、世界各国へ移住 して離散。

☞BC200=モーゼの口伝立法をまとめたタルムードは、旧訳聖書を編纂した。

AD0395~AD0634(239)=東ローマ帝国

AD0634~AD1516(882)=カリフ諸王朝

AD1516~AD1917(401)=オスマン帝国

AD1917~AD1948(031)=国際連盟によるイギリスへの委任統治

 

エルサレム神殿の建設

BC0950=ソロモンが第一神殿を建設した。

BC0586=新バビロニア王国のネブガドネザル2世が、ユダ王国の裏切りに対して怒り、第一神殿を破壊した。

BC0515=バビロン解放後、ダレイオス1世の時代に大天使ガブリエルにより第二神殿が再建された。

BC0020=ヘロデ大王により神殿が拡張された。

AD0070=第1次ユダヤ戦争の時は、皇帝ネロの自殺があり、4皇帝の年であり、ゲルマニアでの反乱等により混乱していたが、ローマ皇帝ウェスパシアヌスの息子で後の皇帝ティチュスにより破壊された。以降、再建されることはなく、西の壁の下部は、ヘロデ神殿の遺構を残す数少ない部分であり、「嘆きの壁」として現存している

 

ペトラ遺跡に住むナパテア人

BC0168=北アラビアの遊牧民族で、羊の放牧や盗賊稼業、ラクダを利用した貿易などを行いながら、エドム人(ヤコブの兄エサウの子孫)が居住していたペトラを拠点に生活していた。キャラバン貿易の商隊路に沿う形で領土を広げていった。紀元前63年にハスモン朝ユダ王国の内戦に介入するが、共和政ローマ介入によって最終的にローマ軍にペトラ目前まで攻め込まれ、ローマの属国となった。その後、アラビア半島西を通る交易ルートは紅海を通る海上ルートが主流になっていったためペトラの商業都市としての重要性が低下し、その衰退の勢いを止めることができないまま、

AD0106=ローマのアラビア・ペトラエア属州に組み込まれて消滅した

 

A4版(PDF)

下記のPDFの系図「滅亡したユダ王国のその後」を併せて読んでください、流れがわかりやすいと思います。

詳細の資料はこちらからダウンロードできます。 israel.pdf

「引用」
 参考:「古代イスラエルの歴史」(Wikipedia